カクレキリシタン
先月、長崎のキリシタン巡礼の旅に出かけ、隠れキリシタンの世界に浸って来たが、もう少し知りたいと、今回、長崎純心大学人文学部教授宮崎賢太郎氏の「カクレキリシタン」長崎新聞新書版を読んだ。
1550年以降、ポルトガルなどから来た宣教師から教えを学んだ、長崎周辺の多くの人々がその理由は別にして、キリスト教を信じるようになったわけだが、秀吉の禁教令などにより地下に隠れたような信仰生活を余儀なくされてしまった。 そんな信仰が200年以上も言い伝えだけで続いて来たが、禁教の時代は終わったと、1865年大浦天主堂のプチジャン神父に、”同じ信仰を持つものだと”申し出た人々がいたという。 大浦天主堂階段脇には、ここが日本カトリック教会復興の場所だと、その場面を描いたモニュメントが建っている。
この絵のように、「隠れキリシタンの信仰=カトリック」というのが今までの自分の認識であったが、本書を読んで全く異なった世界であったことを知った。
つまり、禁教時代は司祭や宣教師などの指導者はおらず、隠れた言い伝えだけで信仰を守り、日常は寺や神社の檀家としての装いもしていたわけで、そういう生活の中で、色々な宗教儀式が混ざわりあって、全く異なる宗教形態をなして来ていたのであった。 つまり、キリスト教の土着化や土俗化が進んでいた社会であったわけだ。
従い、戦後、人々が生活の糧を求めて流動するに至って、帳役や水役などの信仰儀式を執り行うことが難しくなり、キリシタン集落としての維持が困難になった。 先祖の墓を守るなどの組織が成り立たなければ、地域の寺の檀家になったり神社に所属するようになるのは自然の理である。 著者は、家の中には色々な神様が存在し、その中からたまたまキリシタンの神様が消えただけで、彼らの生活や宗教観に何ら変化がなかったと記している。
先月、外海の黒崎を案内していただいた時に、天福寺の住職に世話になった隠れキリシタンは多かったとの話であった。 この墓誌のように、昔に亡くなられた方には洗礼名(霊名)が付き、最近に至って戒名に変わっている墓所を随分と見た。
最初にこの墓誌を見た時、キリシタンから仏教に帰依する意図がよく理解できなかったが、本書を読んで納得。1597年2月にのちに26聖人となった司祭や信者が殉教していたが、その時代とは大きく変化してきたのが隠れキリシタンの歴史であったということであろう。
今回の巡礼は、長崎カトリックセンターが主催したもので、ご担当の方々の熱情には感じたものの、現在のカトリック教会の隠れキリシタンに対する思い入れは少ないように思われた。 その一因が、本書に書かれていたことでもあったと悟ったわけだ。
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